0297-42-0169
館内常設展示場にはナウマンゾウの骨格標本が展示されている
30万年前には、石下近辺にもナウマンゾウが存在していたようだ
その他、町内で発見された貝塚から発掘された席や益城竪穴住居復元模型(約6000年くらい前)、縄文土器、弥生土器等展示されている
郷土出身の長塚節に関する書簡、草稿等資料が展示されている
父親は県会議員も務めるほどの名士だったが、借財を残して没したためにのちに節は返済と農業経営の建て直しに苦労している。
幼時より神童といわれたが、病弱であったために水戸中学を中退(1896年)。伝統的な和歌に関心をもっていた節は、
そのころに短歌の世界に惹かれるようになった。
しばらくして上京、俳句・短歌界で高名をなしていた正岡子規(まさおか・しき)の門下に入る。
病にあった子規が数年して没すると(1902年)、写生を重んじ『万葉集』を尊しとした子規の意志を継ぎ、
同門の伊藤左千夫(さちお)らとともに短歌誌『馬酔木(あしび)』(1903-1908年)を創刊。
その後の短歌誌『アララギ』(1908年創刊)にも参加している。
一方で、身軽な菅笠(すげがさ)、草鞋(わらじ)姿で全国を旅行しては歌を詠んだ。
この旅姿を象(かたど)った節の銅像が石下町の町内に建てられている。
節の観察力と繊細さは、写生においていかんなく発揮され、やがて小説『土』のなかでも活かされることになる。
(茨城県ゆかりの人々より)