長龍寺
長龍寺は延長3年(925年)平将門の創建と伝えられる
天正2年(1574年)再建、天正18年小田原の北条氏攻めの際に当地に来た
豊臣方の武将浅野長政、木村重滋の出した禁制文書が残されている
(守谷の自然誌より)
天正18年(1590)小田原城の北条氏政・氏直は、豊臣秀吉の大軍に滅ぼされました。
北条氏の配下にあった守谷の相馬氏は、秀吉の命を受けて進攻した浅野弾正弼長政(あさのだんじょうしょうひつながまさ)・木村常陸介重滋(きむらひたちのすけしげます)によって滅ぼされました。
その時、浅野等は、長龍寺に滞在して、この地方の治安のため、禁制令を出しました。
その内容は、軍兵が乱暴したり、作物を取ったりして、この禁政令にそむく者は、厳重に処罰するというものでした。
九曜の紋は、少し大きい丸型の(太陽)を中心にして、8個の小さな丸型(月・火・水・木・金・土の星と釈迦・不動様)が囲んで出来ている家紋です。
海禅寺・長龍寺・永泉寺には、この九曜の紋がついています。九曜の紋は、宇宙を支配する星を守り神とした信仰から生まれたものです。
平将門は星を信仰していたため、将門に関係のある寺や神社には、九曜の門がついているようです。 また、将門は、守谷地方を信仰の地域とされたと伝えられています。(守谷のふるさとかるたより)