海禅寺
海禅寺は平将門の建立と伝えられる
境内には将門と影武者7人の墓が並ぶが室町様式の一基を除きいずれも江戸期のものと考えられている
境内裏には守谷市指定の”スダジイ”の巨木が在る
高野の海禅寺は承平年間(931〜937)、平将門が守谷に王城を建てたとき、京都になぞらえようと紀州高野山金剛峰寺をモデルに創建した寺と伝えられます。
また、この寺には、将門及び7人の影武者(七騎武者:将門を守る7人の侍)の墓と相馬氏の位牌があります。これらは、江戸時代のものと見られますが、その中の一基は、室町様式と推測されています。、
九曜の紋は、少し大きい丸型の(太陽)を中心にして、8個の小さな丸型(月・火・水・木・金・土の星と釈迦・不動様)が囲んで出来ている家紋です。
海禅寺・長龍寺・永泉寺には、この九曜の紋がついています。九曜の紋は、宇宙を支配する星を守り神とした信仰から生まれたものです。
平将門は星を信仰していたため、将門に関係のある寺や神社には、九曜の門がついているようです。
また、将門は、守谷地方を信仰の地域とされたと伝えられています。
スダジイ(椎)はブナ科の常緑樹で、我が国では中部以南の比較的暖かい地方に生育しています。
ここ海禅寺の本堂裏にあるスダジイは北限に近いものとされ、樹齢250年、木の周りは4.9メートル、高さ25メートルの巨木で、天然記念物として市の文化財に指定されています。
また、境内には、将門の子孫ともいわれる相馬家の家紋の「つなぎ駒」を掘り込んだ墓があり、今なお、将門を偲ぶ人々が遠方から墓参りに訪れています。
海禅寺の縁起は寛文4年(1664)守谷1万石の領主堀田備中守正俊が寄進したものです。
その縁起によると、将門は延長8年(930)京都から相馬御厨の下司(徴税役)となって帰り、承平元年(931)父良将の供養のため、紀州の高野になぞらえて地名を高野とつけて建立した寺です。
この辺りは相馬御厨(皇太神宮の御領地)の中心であり、将門の母や弟(将頼)が住んでいたようです。
この頃が、将門の生涯にとって、一番心の安らいだ時であったと思われます。
(守谷のふるさとかるたより)